天目山(てんもくざん)は、山梨県甲州市(旧大和村)にある峠の名称です。麓の田野で、
天正10年3月に武田勝頼が自刃し、名門甲斐武田氏が滅亡しました。自刃の地には
武田勝頼、北条夫人、嫡男武田信勝の菩提寺として徳川家康が建てた景徳院と言う寺
があります。

 紫陽花と百合が綺麗だと聞き、梅雨空のある日、訪ねて来ました。



 山門です。この建物だけが火災に遭わず、天正の頃のままだそうです。



 近くから山門を見上げました。



 本堂です。紋は「武田菱」として有名です。



 中央が武田勝頼、向って右が北条夫人、左が武田信勝の墓標です。武田勝頼のは上部が一部
欠けています。これらの墓標は工事のため、仮設置状態とのことです。



 中央のビニールシート部が本来墓標のある位置です。


 左から北条夫人、武田勝頼、武田信勝の生害石です。つまりこの石に夫々座って自殺した
とのことです。石は3つとも上部が平らでいかにも座り易そうです。でも・・・攻め込まれての
急場にこんな都合のいい石がまるで用意していたかのように揃うだろうか・・・ちょっと怪しいと
思いました。



 紫陽花と百合。確かに花盛りでした。



 北の方向。遥か先に、受入れを表明してくれたもう一人の武将、真田昌幸の上州岩櫃城があり
ます。親戚の小山田信茂の方を信じてしまって・・・。山の形は当時とそんなに変っていない筈で、
勝頼もこの景色を見つめたでしょう。思いはどうだったでしょうか。




 「武田慕情」と言う歌碑がありました。いではく作詞、遠藤実作曲と読めました。

    夕日に染まる 甲斐の山 こだます鐘に 春おぼろ
    戦い暮れた つわものの 大和心を 知るように
    舞い散る花は 山桜

  演歌調の曲です。次のサイトで聴けます。CDを連想させるアイコンをクリックして下さい。

       http://www.yamanashinouta.com/takedabojou.html

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 ところで、甲斐武田氏は天目山で2回滅亡したという事実を御存知でしょうか。勝頼の自刃した
天正10年から165年遡って、応永24年(1417年)、室町幕府に追われた武田氏第13代当主
武田信満が山中の木賊村で自害して甲斐武田氏は一時断絶したとのこと。武田信玄はその後に
再興された甲斐武田氏から出たとのことです。

 頼りにした小山田信茂に裏切られ、万策尽きた武田勝頼は、ひょっとすると先祖のこの史実を
知っていて、死後の再々興を願って、ゆかりの地の天目山を目指したのかも知れません。

  辞世 「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」  武田勝頼 37歳

      「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」   北条夫人 19歳

      「あたに見よ たれも嵐のさくら花 咲き散るほとは 春の世の夢」   武田信勝 16歳 

 北条夫人
(北条氏康の6女)はこの時未だ10代、信勝から見れば姉さんのような継母でした。

 織田信長は武田を殲滅しましたが、徳川家康は三方ヶ原の戦いで全く歯が立たなかった武田
信玄を深く尊敬し、遺臣達を多く召抱え優遇しました。武田家も勝頼の兄で盲目のため出家して
いた次兄(信玄の次男)海野信親(竜宝)の系譜により高家武田氏として江戸時代に再々興され、
現在に伝わっています。現当主は武田英信氏(武田信玄から数えて17代目)。


 

武田終焉の地